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ANDREI CHIKATILO(アンドレイ・チカチーロ) T-shirts/ natural BODY

4,800円(税込5,184円)

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アンドレイ・チカチーロ(Andrey Chikatilo)

▼BODYカラー:ナチュラル

サイズ(cm)
▼レディースL:着丈/64 身幅/45
▼S :着丈/65 身幅/49
▼M :着丈/69 身幅/52
▼L :着丈/73 身幅/55

染み込みインク使用

チカチーロの写真と共産圏ロシアのイメージをコラージュ

チカチーロは成長のさなかにインポテンツである事に気付き苦悩し、自身をさらに悪化させた(フロント左上にプリント)、

彼は自分が一度失敗した事を忘れる事が出来なかった、どんな些細な愚弄も忘れなかった。
思春期の彼は異性と付き合うのを断念し読書と自慰にふけった。
とある日妹の同級生が訪ねて来た。
彼女の背後から襲いかかり強引に性交を試みたが、彼の性器は勃起しなかった。
これを受けて妹の友人はチカチーロを罵った。この体験で彼は激しい後悔と劣等感に打ち震えた
(フロント下部にプリント)

バックプリントには彼が犯行に使用したナイフの数々と売春婦や子供を誘い殺害した手口や様子をプリント。

LARVAロゴは
Lascivious Agitator Reached Venture Articulation(淫らな扇動者は大胆な表現に辿り着いた)
となっています。




アンドレイ・ロマノヴィチ・チカチーロ
Andrey Romanovich Chikatilo
(1936年10月16日 - 1994年2月14日)
ウクライナ生まれの連続殺人者。ロストフの殺し屋、赤い切り裂き魔などの呼び名で知られる。
52人の女子供を殺害した。


アンドレイ・チカティロは1936年10月16日、ウクライナのヤボロチノエという農村に生まれた。
それはウクライナ大飢饉の直後のことだった。

農民たちは食料をめぐって殺し合い、そして、飢えを凌ぐために人肉を食べた。チカティロの兄も食べられた。
チカティロはこの話を4歳の時に聞かされた。その衝撃は、彼の生涯に少なからず影響を与えた。

1941年のドイツ軍の侵攻により、チカティロは多くの死を目撃した。
手足を吹き飛ばされた屍体を目の前にして、彼は初めて性的な興奮を覚えた。
その時に芽生えたサディズムは『若き赤軍兵士』という小説により助長された。
彼は、ドイツ軍兵士を拷問する赤軍兵士と己れを重ね合わせ、嗜虐的な空想に耽った。

戦争でナチス・ドイツの捕虜となり収容所で生き残った父が家に帰還したが、
父は兵役による報酬と生存の代わりにドイツ国防軍に降参した
「裏切り者」「生き恥を晒した」という烙印を押された。

しかし、素顔のチカティロは極めて内向的な少年だった。
極度の近視にも拘らず、馬鹿にされるのを嫌い、眼鏡をかけないでいた。
そのために間抜けな失敗をやらかして、余計に馬鹿にされた。
異性に対しても奥手で、まともに話すことさえ出来なかった。
そうしたハンディキャップを乗り越えるために勉学に勤しんだが、
モスクワ大学の受験には失敗した。
 3年の兵役を経て郷里に帰ったチカティロは、その生涯を決定づける事件に遭遇した。
どうにかデートに誘って恋愛関係に持ち込んだ女性に「あいつはインポだ」
と土地の女たちに云い触らされてしまったのだ。彼は逮捕後に苦々しく述懐している。
「私は恥ずかしくてたまらなかった。はらわたが煮えくり返る思いだった。
あの女を殺して八つ裂きにすることをあれこれと想像した」
 この時、彼の内なるサディズムとセックスが明確に融合したのである。



24歳になったチカティロは、忌わしい思い出しかないウクライナを棄ててロシアに移り、
ロストフで電話修理工の職に就いた。しかし、新天地でも惨めな生活は相変わらずだった。
頭の中はアレのことでいっぱいだったが、恋人は疎か友だちさえも作ることが出来なかった。
そして、仕事中にオナニーをしているところを見つかり、同僚たちの笑い者になった。

見るに見かねた妹の紹介で、3つ年下のフェオドーシャと結婚した。
「妻とのセックスは子供を作るためのものであり、楽しんだわけではない」
 彼が夢想したセックスとは、女を制圧し、虐待することだった。しかし、
それは妻にはできない。欲求不満は次第に募っていった。

1971年、チカティロが通信教育を通じて教師の資格を得た時は、妻は鼻高々だった。
共産圏では教職の社会的地位は高いのである。
しかし、その実際は惨澹たるものだった。チカティロは初日から生徒に野次られ馬鹿にされた。
同僚の教師からも疎んじられた。それでも教職を辞めなかったのは、
可愛い生徒たちがいるからだ。チカティロは女子寮に忍び込むと、覗き見しながらオナニーに耽った。


この頃のチカティロは、既にオナニーだけでは満足できなくなっていた。
町の外れにあばら屋を買い、そこに売春婦や浮浪者を誘い込んでは、
いろいろと頑張っていた。しかし、インポは相変わらずだった。

1978年12月22日、仕事を終えたチカティロは帰り道でエレナ(9)に声をかけた。
そして、例のあばら屋に誘い込んだ。彼女の死体は2日後に近くの川で発見された。
これが彼の最初の犯行である。ところが、警察が逮捕したのはアレクサンドルという前科者だった。
自白を強要された彼は有罪となり、1984年に処刑された。



遂に殺人を犯してしまったことへの動揺と警戒心から、チカティロはしばらくは静かにしていた。
しかし、教職をクビになり、已むなく工場の補給担当者の職についてから6ケ月後の1981年9月3日、
ラリサ・トカチェンコが第2の犠牲者となった。森の中で絞め殺し、屍体を切り裂きながら射精した。
そして、我を忘れて屍体の回りを踊り狂い、雄叫びをあげた。
「パルチザンになった気分だった」
 かくして、ソビエトが生んだ最悪の連続殺人鬼、アンドレイ・チカティロは完成した。
以後、12年に渡り、50人以上の女性や子供を手にかけた。犠牲者はめった刺しにされ、
眼球をくり抜かれた。そして、内臓や性器を切り取られた。食べるためだった。
その場で生のまま口にすることもあれば、持ち帰って調理することもあった。


この恐るべき食人鬼が12年もの間、野放しにされていたのには様々な理由があった。
まず、「連続殺人は資本主義特有の病理現象」とする共産党の宣伝がその1つとして挙げられる。
連続殺人が理論的にあり得ない社会において、子供たちは大人に対する警戒心をまったく教えられて
いなかったのだ。そして、警察も連続殺人を想定していなかった。

補給担当者という仕事は物資を探し求めて移動する。チカティロはその先々で犯行を繰り返していたのだ。
縦割り型の警察機構では全貌を把握することは不可能だった。

出張先のモスクワ市郊外で殺人を犯す。この事件をきっかけに、KGBの国内部門が捜査に乗り出し逮捕した。


裁判での彼の態度は異常で分裂的であった。公判の最中にズボンを脱いで性器を露出させたり、
法廷に持ち込んだポルノ写真を高々と掲げたり、自慰を始めたり、ソ連当時の国歌を歌った。
法廷から「サディスト!」「人殺し!」といった罵声を浴びせられると、チカチーロは声のした方へ
笑いながら手を振った。

合計52件の殺人で有罪を宣告されたチカティロは、1994年2月14日に処刑された。

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